成年後見業務と葬祭

 成年後見業務は基本的に被後見人本人が生存している間のものである。厳密には本人の死亡とともに、後見人の権限も消滅するので法的効果を及ぼすことができなくなる。死亡に伴う事後の諸手続、後始末から葬儀、埋葬等、債務の支払、相続手続に至るまで数多くの事柄について後見の法制度の中では手当てされていないのが現状である(別個の事務管理、相続手続となる)。しかし私たちのように身寄りのいない方の後見人を多く引き受けている場合、被後見人の葬儀は必ず来るもので、権限がないからといって放っておけるものではない。むしろ後見業務の延長線にあるものとして集大成の意味で、ことにあたっているつもりである。私もこれまで様々な葬儀を経験してきた。身寄りがいないといっても厳密な意味で親族のいない人はいない。しかし現代社会は本当に孤立している人が多い。被後見人の親族のなかには危篤の知らせをしても、来ない人が多い。子どもがいるのに、生存中の様々の軋轢が尾を引いて最後まで和解ができない場合もあれば、未婚のため配偶者も子もなく、兄弟も皆高齢でしかも遠方のため来られないというケースも多い。そんな時は後見人として真夜中に病院から遺体の引取りのため呼び出されたこともある。野辺送りもほんのささやかに、病院関係者と後見人のみでしたことも一度や二度ではない。しかし、そんな時私は、ふと思うことがある。盛大な葬儀はなくとも、人生の後始末の仕方としてなんとさっぱりして潔い方法であるか、と。そして僧侶が唱える経、念仏を静かに聴きながら、人生の終末期に偶然出会った被後見人の人柄をしのび、思い出をふりかえり何か少しでも役立つことができたのかなと思い巡らす、安らかなひと時をもてるのは後見人冥利に尽きるのではないかと。このように後見業務は様々な人生模様を見せてくれる。多くの財産をもちながら病院のベッドで一人ひっそり旅立つ方もいれば、中には子も親も兄弟もいないのにも関わらず最後の時を周囲の人の暖かい善意のターミナルケアに恵まれて静かに息を引き取った人もいる。又ごくまれには被後見人自ら、親族には一切知らせないで欲しいと念を押す人もいた。その女性は本当に徹底していて全ての財産をきれいに処分して、死後の埋葬費用のみを託して人生を全うした。ある意味究極な形の人生の終い方を見せてもらったような潔さを感じた。後見業務ははじめ、先が見えず後戻りを許さず途方にくれながら続くが、最後は圧倒的結末を持って収束する。その時々でいろいろな特徴を示すが、やはり最後の部分は際立った特色を有するといえる。死をまじかにすると人は皆厳粛な気持ちになり無力感さえ感じる。一切の抵抗を許さない圧倒的自然の摂理の前にあまりに無力な人間とそれでも尚平然と自分の人生、運命をそのままに、あるがままを受入れてしたたかに生きるたくましい人間。人は意思を持つ生き物だから最後まで自立的に生きたいと願うだろう。しかし、いろいろな事情により自分が自分のコントロールの効かない状態になることが十分ありえる世の中に生きているのもまた事実である。
 そんな局面を担う後見業務をしていると、私はいつかしら無言ながら何か訴えてくるような、被後見人の声なき声が聞こえるのを感じる。仕事とはいえ、人の死に直面するのはつらいし気が重くなる。しかし後見業務をしている限り、この声なき声をじっと聞き入る努力を続けなければならないと思う。
                    (「法学セミナー」2012年2月号より転載)

 

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