小説 成年後見物語(3)

 この夏一人の女性が亡くなった。享年64歳。私が初めて成年後見人に就任した思い入れ深い案件の被後見人である。後見業務を一から学ばせてもらい、一つひとつ泣いたり笑ったりして結実してきたという感慨が浮かぶ。仕事がら人の死に立ち会うことが多くその度に初心に帰り厳粛な気持ちとなるが、今回はことのほか気持ちを揺さぶられた。    

 
 彼女は十代で統合失調症を発症し、治療を受けることなく親の庇護下での生活を50歳代まで続け、いよいよ親の死亡により身寄りのない状態で、市の福祉課が入り保護措置入院となった。亡くなった母親も精神障害があったらしく2人が住んでいた自宅は、ねずみの巣窟のようなゴミが数十センチも堆積しているお化け屋敷であった。しかしそこにはかなりの資産が残っており、資産の整理と相続手続、税申告、判断能力がない人の財産管理、身上監護という問題が横たわっていた。


 成年後見業務は財産管理と身上監護の2要素からなるが、私は身体、精神の障害により判断能力が不足し、家族等の後ろ盾を得るのが困難な場合等に、人が人として生きていく、その生存を保障する一助となるシステムが成年後見制度ではないかと思う。彼女の場合もありとあらゆることが起こった。全てはここに書ききれないが・・まずはゴミ屋敷に分け入り、財産の調査確認から始まった。財産の選別・保全・管理、遺産としての財産整理、相続に関する法手続、税手続、自宅不動産の清掃・修繕・管理、荒れ放題だった庭・樹木の整備、近隣住民からの苦情処理、土地の境界問題での市との協議、日常の生活管理、入退院手続、更に本人の意思確認、気持ちの代弁、日常生活の見守り、看護・介護者との協議・連携、手術・医療行為の承諾等々・・入院当初、精神科の医師からは「彼女の場合退院はありえない」といわれた。幼少期の発病のため精神疾患の治療が進んでも社会性や自立能力の点で不足が大きい点や糖尿病や高血圧の症状も一筋縄で行かないことが問題であるといわれた。しかし面会の度に本人の口から出る希望は只一つ、「早く家に帰りたい」というものであった。幸い彼女の経済面は余裕があり、十分な看護医療体制を備えた自宅療養費用の工面も可能であったので何度も何度も医師、ソーシャルワーカー、看護師らの関係者と話し合った。その甲斐あって、試験的短期外出、外泊が始まり、徐々に長期の外泊となり、自宅のほうも環境整備、大修繕を経て、本格的な退院にこぎつけた。後見人にとっても本人の希望をかなえ快適な住環境を整備できたことは大きな喜びであった。


 その後しばらくして、重篤な病気が見つかり、終末医療の問題まで出現した。すい臓癌の末期症状で、快方の見込みなしと宣告された時、終末期を看取ってくれる身内もいない状態で、後見人として何ができるだろうと途方にくれた。精神科の病院は個室もなく、最後の時をすごすにはあまりに味気なく、さりとて個室ケアのある一般病院では精神疾患のある彼女になじみのない人ばかりで居心地がいいとは考えられなかった。バリアフリーに大修繕した自宅もあり、なじみのヘルパーさんもいるのだから自宅での終末ケアも可能ではないかと模索が始まった。限られた時間をいかに穏やかに、より快適に過ごせるかという一点を眼目に、医師・看護師・ケアワーカーらと真剣に話し合った。その結果自宅での終末期を看取る訪問ドクターを探し出し、訪問看護師、24時間付き添いヘルパーとあわせて自宅でのターミナルケアを実現したのであった。多くの善意に恵まれ全く画期的な展開となった。彼女の穏やかな死に顔と、臨終に残した「ありがとう」という言葉が今も印象に残る。(「法学セミナー」 2010年1月号 より転載)

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