小説 成年後見物語(2)

 午前0:45携帯のベルが鳴る。覚醒しきらない意識の中で電話にでる。やはりきたか・・・・・「○○病院です。Aさんが急変して亡くなりました。すぐ来てください。」1時間ほど前に着替えたパジャマを再び着替えて、いてつく冬の闇の中に踏み出す。タクシーを拾い、行く先を告げるとこれから夜勤ですかと尋ねられた。・・・・・病院へ着くと、当直の職員の人から「Aさんは既に、地下の霊安室に移されました。そこでお待ちください。」と言われた。


 私はAさんの第三者(親族以外という意味での)成年後見人である。私の職業は司法書士であるが、最近は成年後見業務を多く手がけている。成年後見制度とは(後述するが)、一口でいうと認知症等により判断能力が衰えた場合の財産・生活の管理について、法律面でのサポートを受けるための後見人(支援人)を選任する仕組みである。Aさんについても、認知症状で病院に収容されたが、身寄りがなく入院費の支払が困難な状況であった。病院としては判断能力が衰えた本人から金銭を支払ってもらうこと自体苦労したようである。それでも年金管理だけで難しい財産管理がなければ病院の福祉ワーカーが金銭管理を代行できたかもしれない。しかし、Aさんは借金が多く所謂多重債務状況に陥っており、放置しておくと年金はすぐに底を尽き、入院費さえおぼつかない状態であった。つまりこの債務状態を整理し、財産を管理する必要から後見人が選任されたのである。


 Aさんには息子がいる。しかし、生前のいろいろな複雑な事情、確執のため息子は危篤状態を知らせても面会にくることはなかった。病院に対する遺体引取り人は後見人たる私ということになる。最近のAさんの事情を知るのは病院関係者を除けば私ということになるのだからそれも致し方あるまい。Aさんの生涯を思うといろいろな思いが去来する。いつか諳んじた般若心経が自然と口をつく。夜中に病院に駆けつけるのは少ししんどいが、後見業務を通して知り合った人の、人生最後の時に立会い私がいることで何かの役に立つならそれも意義のあることだと思う。職務範囲として第三者後見人はそこまでしなければならないかという問題は別にしても、時と場合で必要とされるときに自分ができる範囲で人の役に立つならそれは意義があると私は考える。
 しかし、真夜中の霊安室で亡くなったばかりのAさんと二人だけで幾ばくかの時間を過ごすのはさすがの私もむずかしかった。私の様子を見かねて当直の人は「葬儀社の人がくるまで待合室の方で待っていいですよ。」と助け舟を出してくれた。ほの暗い深夜の待合室で、Aさんを悼み、息子はいつ来てくれるだろうかと思案した。


 半年前Aさんは一度危篤状態におちいった。幸いそのときは持ち直し今日まで半年以上意識はしっかりしてある意味お元気そうにしていた。その当時、主治医から是非息子を説得して、一度こちらに呼んでくれと依頼された。当初息子はなかなか来てくれなかった。心の中のわだかまりは相当深そうであった。しかし、「数年来会っていない父親と今会っておかなければこのままの絶縁状態で別れてしまいますよ。人間として親子として悔いが残りませんか?」と辛抱強く説得を重ねた結果、ようやく重い腰を上げ見舞いに来てくれた。完全とまではいかないが、病床のやつれた父親を見て、息子は優しい言葉をかけ、ある程度の心の通い合いを感じていたように思う。自分の墓を心配する父に息子は自分の住所地に墓地を購入する約束をして帰っていった。このような手立ても後見人としての身上監護だろうか。私はこの時、物言わぬAさんが喜んでくれたように感じた。


 このようないきさつもあり、息子は昼になると遠方から駆けつけてくれた。簡単な通夜と告別式を済ませ、約束どおり墓は準備していると言って遺骨を持ち帰った。いろいろあったが、Aさんは息子さんの近くで安らかに眠りにつくことができてよかったと思う。あの半年前に息子を説得して対面させて本当に良かったと思う。


 後見人の仕事は何も財産管理だけではない。その人の生活全般に目を向けるものであるから、時には深刻な場面もある。このように人生の最終章に立ち会うこともある。いつもいつも深刻なわけではないが人生の勉強をさせてもらうことも多い。だからこそ、いつもいつも目一杯頑張っているととても続かない。私は要所だけは抑えるように心がけている。未熟な私でも役立つことがあれば幸いである。




(一般的説明)

 成年後見制度とは本人が病気・事故などにより、脳血管障害、精神障害、加齢に伴う認知症等により判断能力が衰えてきたときに、財産・生活管理について社会的生活をする上で必要な法律面でのサポートを受けるための後見人(支援人)を選任してもらう制度です。2000年に介護保険制度と共に発足しました。


 現代は生活の隅々まで契約で成り立っています。例えば他人の財産を狙う詐欺的商法(不要で価値のない壷や布団などを高価な金額で売りつける)も契約で成り立っていますし、日常生活の食品などの買物に始まり、銀行に預金したり、ヘルパー派遣を依頼したり 食事宅配サービスや施設入所等、生活や介護の支援を受けるについても契約が必要です。つまり、生きていくには少なからず法律的・社会的能力が必要とされるのです。しかし高齢、病気や障害により判断能力が衰えると自分ひとりでは必要な契約を正しく結ぶこともできなくなります。それを補い、不利益を受けないように予防するためのシステムが成年後見制度なのです。
 

 成年後見には2つの仕組みがあります。家庭裁判所に申立をして、本人の能力程度に応じて「後見」「保佐」「補助」に区別して支援人を選任してもらう「法定後見」と、あらかじめ自分で、能力が衰える前に将来の事態に備えて後見を頼みたい人と個人的に契約する「任意後見」とがあります。
 申立は本人、親族(4親等内)の他にも、市町村長からも行なうことができ身寄りのない人も利用できます。申立件数の伸びは非常に大きくなっています。
 実際に後見人となる人は親族が一般的です。しかし諸事情や本人の希望により つまり本人に身寄りがない場合、またはいても何らかの都合で家族ができない場合、法律の専門家(弁護士、司法書士等)や福祉の専門家(社会福祉士等)が職業後見人として選ばれることもあります。親族への裁判所からの問合せは、親族がそれを望まないのであれば、強硬にされることはありません。この親族以外の第三者が選任される割合も年々増加傾向にあります。


 後見の具体的仕事はまず本人の財産を調査し、それを管理します。生活プランとつき合わせ、収支が経済的に適正かを見守り生活を支えます。日常の家計の支払い、年金、財産管理の他に病院や施設等との入所契約やその他の契約ごと、不動産の売買、税務申告、相続についての遺産分割や争いごとがあれば裁判なども本人に代わって行う必要があります。事務の内容は本人の希望があればそれを十分取りいれなければなりません。特に、任意後見契約は自分が率先してするものなので、自分の意見や希望を後見人と十分話し合い納得したものを作ることができます。任意後見の場合は公正証書にすることが必要です。


(親族と第三者後見人)

 私たちが(第三者後見人として)扱うケースは身寄りのない方もいますが、ほとんどの場合なんらかの親戚はいるもので、特に本人の子どもがいる場合も多く存在します。子どもがいる場合は子どもと本人の関係は悪化している場合ばかりではありません。精神的な絆が結ばれている場合も多く、万が一の場合はやはりその子どもが親の最後の面倒は見るのであろうと思われるケースも少なくありません。例えば息子が海外赴任の為後見人を依頼されたケースでは、息子は年1回必ず里帰りをして母親を見舞っており、時折便りもありますが、母親の強い希望にもかかわらず当分帰国の予定は立っていないという事例もあります。つまり親子の絆はあるが、現在は住居が非常に遠いので第三者後見人を頼みたいとか、絆はあるが精神面とは別に経済面即ち財産管理は第三者に合理的に頼みたい(親子間でも経済的には独立別個)というケースです。このように、第三者が選任される場合は本当に身寄りがない場合のみならずいろいろなケースがありうるのです。


 第三者後見人選任例の一般的類型は、(@)面倒をみることのできる身寄りが近くにいない場合(何ら事件性のある問題はないが、身寄りがいなくて管理する人がいない場合。また身寄りはいるが確執があり関係を拒否する場合も結局これに含まれる。)(A)親族間に財産的利害対立がある場合(B)金銭的トラブルに巻き込まれ法律の専門家の介入が必要な場合等に区分けできる考えられます。


(後見業務と死後の業務)

 また、後見業務がいつもいつも深刻な訳ではありません。後見業務とは本来ご本人が生きて生活している間のことであり、社会生活をする上で不足した判断能力を補う為の制度です。多くは生活をする上でのお金の管理やその他の財産があればその管理、必要な契約等の法律問題、毎日の介護の手当てなどへの対応をするものです。当然死後の相続処理問題とは一線を画する分野であり、最初の例のような臨終に立ち会うとか遺体引取りという問題も本来の業務範囲ではありません。但し人間は最終的には死を迎える生き物であり後見業務の延長線には人生の終末に対する準備も包含されると考えられます。それを放棄できる訳ではないし、いざとなればやはり必要な事柄です。しかし、親族がいれば生前にいざこざがあろうと、やはり身柄を引取り丁寧に葬るのは親族でしょう。親族がいない場合たいてい本人は自分の始末のことを考えており後見人が業務としてそれを委託されることはあってもそれ自体やはり本人が決めていったことというべきでしょう。よって、後見業務を考えるとき終末のことばかりを不安がることはありません。やはり後見業務とは生きている間の生活に対するものなのです。


(財産的トラブルと後見業務)

 初めて後見人に就任して1、2年もすると、ご本人が、ホームなり施設で非常に安定して落ちついた生活を継続できるようになり、ホームから後見人への問合せや呼出もぐっと数が減り、業務としては毎月の定型の金銭管理でこと足りるというケースがあります。着手段階は問題があるので申立がなされたのであり、大変なのは当然ですが、初期段階で問題行動、状況があったとしても、後見人がついてその問題状況が解決・払拭され、それに本人の残存能力が高く社会適応力があると、時間の経過と共に本人は適切な住環境で静かな生活を送れるようになります。そうなるとしめたものです。後見業務としては毎月の支払等の推移に気をつけていればかなりの部分をカバーできる場合もあります。
 このようなケースの背景、つまり当初後見が必要とされた原因としては、本人が金銭トラブルに巻き込まれていた場合が多いです。判断能力が衰えてきた状態で、現代社会に取り残されていると金銭トラブルに巻き込まれます。正常な能力を持って対処していても、詐欺事件にあう例はあとを絶ちませんが、まして能力が減退していればその危険性は間違いなく増大します。高齢者や障害者が消費者被害事件や、親族間の金銭的、財産的紛争に巻き込まれる例は枚挙に暇がありません。クレジット・サラ金被害におちいることも多く、なけなしの年金すら押さえられることもあります。法律を知らない為、判断能力が弱り適切な判断ができない為にこのような被害を受けていることが多いのです。更に、このことが引き金となり、親族間の紛争にも発展して家族から孤立しているケースもあります。そのような場合法律の専門家が後見人となって、金銭トラブルを処理し解決すると、本人の精神状態が飛躍的に向上することがあります。煩わしさから開放され、穏やかな表情を見せ、今までの暴力的行動や暴言が引き潮のように引いていくのがわかります。しばらくぶりで会うと、ああこんな優しい顔の人だったのだと驚くこともあります。このようなケースではその後財産管理業務も安定し、身上監護面も順調となります。


(まとめ)

 しかし判断能力は人により千差万別です。就任当初から、ほとんどこちらのことを認識してもらえず、何度会っても初めて会う人のように接する人もいれば、始めはよくわかっていたが、次第に能力の衰えが強くなり認識できなくなったりする人、更には会うたびにニコニコと喜んで迎えてくれる人等様々です。そして判断能力や身体能力もずーっと安定継続しているわけではありません。健康状態に変化が出て、住まいの環境も変化せざるを得ない場合もあります。財産状況も時の経過により減少したり安定供給できなくなる場合もあります。変化があればそれに対応しその時に一番最適なものを考えねばなりません。しかし、人間には限界も多く社会体制とて不完全です。後見業務の範囲では現代の医療状況、社会状況下で、これが本人にとって最もいいことなのかと自問することも多いです。第三者後見人が本人の生活の支えの要になることは大変なことです。ただこれらは後見人が一人で支えるものではなく、家族、医療機関、介護の専門家、日常生活のヘルパーさん、民間及び公的福祉サービス機関等との連携により始めて成立するということに思い至ります。そして何より成年後見制度は自分達が将来利用するものであり、自分自身の問題としてとらえ、互いに協力し合ってよりよい制度にしていくべきものと考えます。   (「シルバーネットワーク 2005年3月」より転載)

 

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