成年後見人の医療行為同意権に関する私見

 (前提問題)

 成年後見制度については、まだまだ解決しなければならない問題が、種々残されていますが「医療行為の同意」もその一つです。私も新制度発足以来、微力ながら後見の実務に携わってきた経験の中で、少しずつ考えてきたことをまとめてみたいと考え筆をとりました。
 まず、この問題を考える前提として、捉えておかねばならない点がいくつかあると思います。ひとつはよく言われる医的侵襲行為という言葉の意味であり、次に「どうしてそもそも医療行為には同意が必要なのか」という問題です。医的侵襲行為とは一見難しく違和感を覚えるネーミングですが、実は医療行為のもつ特徴をよく顕すものといえます。つまり医療をみてみると、それは人間にとって必要であり社会的に相当な行為でありながら、その外形行為は手術により身体に対して傷をつけたり、薬物を投与して身体、生命に何らかの反応を与える作業であると言う事がわかります。その外形的部分を捉えて侵襲(侵害)行為と表現するのです。そしてこの外形的侵害行為のゆえに、次の問題である「同意」が重要になるのです。人は痛みを伴うことや生命身体への何らかの障害を伴う事については、その意味、「これは病気や怪我を治すために必要な事だから」ということで我慢できるのです。つまり医療行為の場面では、治療行為についての十分な説明と、それに対する本人の同意と、それと適格で確かな治療技術行為があってはじめてそれが許されことになるのです。要約すると、医療者側からのインフォームド・コンセント、それに対する本人側の同意と、医療ミスのない適格な医療技術行為、これらがそろって外形行為の違法性が阻却されるのです。
 そしてもう一つ付け加えると医師側のインフォームド・コンセントと本人の同意は連動するものですが、医療技術水準は別のものです。同意を得ているからと言って、医療ミスが許されるわけでは有りません。しかし、技術にはその社会、時代の水準、限界というものがあります。医療は人の生命身体への危険を内包するので厳格な慎重さが求められますが、技術にはおのずから限界があるのであり、社会が求める・時代が求める確かな技術がありそれを真摯に行ったのであれば、結果において限界があっても許される範囲になるのです。従い、医療行為の結果に対しては、同意をしたか否かで責任が生じるのではないと思います。同意者への責任があるとすれば、それは同意をするにさいし、いかに医療技術等の情報を収集し、できうる範囲で真摯に判断にあったか否かによるべきで、いわば身上配慮義務をいかに行使したか否かの問題となると考えられます。


(問題の所在)

 そこで次に成年後見制度と医療行為の同意との関連に移りますが、一般的に言われることは、後見人には@医療契約の締結代理権はあるが、A個々の治療行為の同意権はないという点です。これは立法当時の趣旨説明、現行法の解釈、裁判所の実務どれをとっても揺るぎがありません。医療の現場では病気になった人が病院へ行き、診察を受けます。そこでは、患者さんとしては既にその病院を選択して、ある程度の医療契約を結んでいるのです。が、更に治療行為については、医師としてはそれは先に結ばれた契約の履行行為と言えますが、患者としては病気や治療行為の説明如何によってはその医療を選択しないこともありうるという事で同意権が発生しています。これは医療行為が生命身体への自由(人権の中で優越的地位にある自由)を侵害する外形を持つという事で、自己決定権が強く保護されているからです。そしてこの契約締結権と医療行為同意権を、成年後見の見地からもう少し詳しく説明すると、@財産管理行為として診療契約締結代理権と、A身上監護行為としての身体処分への代行決定権(医的侵襲行為への同意権)として位置付けられます。現行法の解釈としては、@とAを明確に区別して成年後見人の権限としては@のみを対象とし、Aは一切含まれないとしているのです。
 これは2000年の立法段階としては、社会的コンセンサスも得られる状況ではなかったし、時期尚早として致しかたない点もあります(Aは一身専属的権利で他者が代行できるものではない等)。しかし、制度創設後5年が経過しこれまでの実務の経験を踏まえ、又これからのことを考えると、否、翻って成年後見制度を作ろうとした、理想・目的を考えれば現行法は不十分状態であり、現実問題としての医療現場、介護現場の混乱を直視すれば、立法論として、実務運用論として新たな展開、展望の早期進展が望まれるのは必須の状況です。じっくり考え、議論しなければなりませんが、私としては治療、手術の意味に関する判断能力が本人にない場合、後見人に民法858条に起因する身上配慮義務に対応する権限として医療同意権を認める方向に進むべきものと考えます。


 ここに少し残念な話があります。
 介護保険施設、介護従事者の話として、痴呆症の方が必要な治療を受けられなかった問題で成年後見制度を論じてもほとんど解決につながらないとか、この問題を成年後見制度で解決しようとする考えは短絡的に過ぎるとか、必要な医療を受ける権利は同意者がいるといないとで判断されるべきでなく医療行為を行う専門家が自らの責任、倫理観において専門的に判断されるべきであるとされたというものです。
 確かに、必要な医療を受ける権利は他者による同意を伴わなくても、人の生きる権利と共に基本的人権として備わっているのであり、同意者がいるといないとで異なる判断がでてくるものではありません。そういう意味で、仮に成年後見制度を利用していなくても、適切な医療を受ける権利が侵害されるわけではありません。しかし、成年後見制度は、判断能力が衰えたり、なくなった方々が人間として適切な環境で生活を維持できるよう、生活支援、財産管理を支援する為の手続として創設されたのであり、医療は生活の中で非常に重要な位置をしめるものであり、医療行為の分野で、成年後見制度が役に立たないと言うのでは制度趣旨に矛盾すると言わざるをえません。成年後見人がいるのに、医療現場で役にたたないでは意味がなくなると思います。
しかし反面、上記のような見方が生れたことは、先にも述べた成年後見法制が立法された段階での、立法趣旨の説明、実務の運用からは、いたしかない結末ともいえます。
 「成年後見人の権限にはAの医療行為同意権は一切含まれず、もっとも現実には自分では同意できない方が医療行為を受けられず放置される事態をさけるため、とりあえず同意がなくても治療を行い、緊急避難、緊急事務管理、患者の推定的承諾法理の援用により同意のない治療行為の違法性を阻却する評価を行うものである。」この論理は一見明快です。しかし、論理的な矛盾点も内包し、又現実問題にも対応できず極めて不十分な措置といわざるを得ません。


(私見と提言)

 上記の見解では医的侵襲行為に関する最終決定権を医療機関側に留保することになります。しかし、医療行為同意権は本来本人固有の権利であり、他者がかわりになし得るものではないはずである。その固有の権利をしかし本人自身が行使できないような状態の時に誰が代わりに行うのが適当かという順番の問題でもある。最終的に後見人もいなければ、医療機関に託さざるを得ないことは確かであるが、仮に何らかの後見人が存在している場合には病気となって初めて遭遇した医療機関に全てを託する前に、それまで関わってきた後見人が本人のために、医療でも関わることのできる場面があるはずだと思うのです。又同意を求める側と、与える側が同じ医療機関であるというのは、後見人がいる場合には適さないと考えます。従い、私は本人が判断できない場合の同意権が認められる順位を以下のように考えます。

1. 本人がリビングウイルを作成していれば、それによるべき
2. 本人が将来に備えて代行して判断してもらう人を選任していれば(任意後見人にリビングウイル等を託する場合等)それによるべき
3. 上記がない場合、家族か、公的信任をうけた法定後見人
4. 医療関係者 病院内の倫理委員会

(3.に唐突に「家族」がありますが、家族といってもいろいろな家族がいるので一概には規定できませんし、詳しい分類検討が必要と思われます。が、一応家族も除外できないので、とりあえずここに入れておきたいと考えます。)


 次に上記に関する根拠としては@医療現場の現実的要請 A成年後見制度の制度趣旨から B他の法律の根拠、裁判所等の後見実務の現状等が考えられます。
 @としては、ある学会のアンケート調査によれば医師の4割は後見人の同意を得たいとの意向があるとのことであり、現実に同意がないため医師が手術行為を遂行できず、よって本人の利益にならない結果発生も起こっている現状があります。更には後見人に同意権がないと、医師の適正な医療技術水準を誰が監視できるのかという点も危惧されます。現実のニーズだけで、許される問題ではありませんが、現状が切羽詰っているというのも重大だと思います。
 Aの成年後見制度の制度趣旨については以下のように考えます。
 成年後見人の職務は財産管理と身上監護といわれますが、民法は成年後見法制の改正にあたり、859条を明記し身上配慮義務をたからかに謳いあげました。これは後見人が本人のために生活・療養監護、財産管理の事務を行うにあたり、本人の意思を尊重し、心身の状態・生活状況に配慮しなければならないとして、後見人にとって、職務遂行の基本は常に身上への配慮にあるべきだという点を強調するものとなっています。そこでは財産管理であっても単なる現有財産の散逸防止・専守防衛のみではなく、本人の幸福追求、生活の質の向上、心身の状態や生活状況の改善を目的とした財産の活用に重点をおく必要があるというものです。つまり資産活用の際にも身上監護の目的が優先されるのであり、極端にいうと、推定相続人を兼ねる後見人が、ある程度財産があるにもかかわらず、自己の遺産の確保という真意のために、財産保全を口実に後見費用の支出を極力控えるのは消極的な形の権限濫用とさえみなしうる、といえます。それぐらい現行法の趣旨としては身上監護義務の充実を図っているのです。この前提で、成年後見人が自己の代理権に基づき診療契約を締結したにもかかわらず、当該契約の履行として実施されるべき個別具体的医療行為については、一切同意権がなく影響力を行使し得ないのであれば中途半端としか言いようがありません。なぜなら同意権が認められず、そのために診療行為が続けられない事態が生じれば、契約締結権すら有効に機能しなくなるのであり本末転倒だからです。成年後見人はいわば公的信任を受けた法定代理人であり、本人の能力が不十分で、自分に必要な事ができない場合に備えて本人に代わり本人のために適切な措置をしてもらうために存在しているのにもかかわらず、治療行為という身体への物理的侵襲を伴う、極めて本人の福祉にとって重要な場面で、その代理人が本人保護のために積極的支援を行えないのは矛盾です。これはひいては身上配慮義務が強調的に規定された趣旨に反するものです。
 従いまとめると成年後見人には療養看護に関する職務があり(民法858条)、本人のために医療契約を締結する権限があり、締約締結後の医療の履行を監視する義務が存することを考えれば、本人に治療、手術等に関する判断能力がない場合には、生命身体に危険性のすくない「通常の治療」程度の医療行為についての同意権を認めるべきものと考えます。
 ここで、同意権を広く一般的に、包括的に規定しないのは、やはり同意権の性質が人格権に関わる一身専属性の強いものであり、又後見人の恣意的判断防止のセイフティガードとしても、制限的枠組みを作る方がよいと考えるからです。治療の程度を、「通常」と「重大」のものに区別し、重大なもの(本人の死亡といった重大な結果を惹起する危険のあるもの)には後見人の権限は及ばないとする区別を設けることが妥当と考えます。この区別については更に種々の議論があると思いますがここでは割愛します。
 Bの他の法律の根拠としては、民法820条の親権者に認められる未成年者の医療同意権や、精神保健福祉法20条、22条、33条から成年後見人に認められる医療保護入院の同意権(33条)や、結核予防法、予防接種法にある成年後見人のある範囲内での同意権等が参考となります。家庭裁判所のしおり等でも成年後見人の医療行為同意権に言及した記述が認められるものもあります。


 理論とは別に、自分の後見業務の経験からしても、身寄りがない被後見人の医療行為について、悩ましいことが多々あります。命の危険を考えると自分だけでは判断のつかない問題も多く、介護者、医療機関等との連携の必要性を強く感じます。これからも多くの方たちと、更に検討・議論し合い、よりよい方向を模索できればと願っています。

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